最初の記憶は、灰色の空と凍えるような寒さでした。
強く降りしきる雨が体温をどんどん奪っていきます。
誰かに助けを求めたくても、辺りには人っ子一人見当たりません。
(寒いです……寒い……)
全身を包む寒気と、やんわりとした不安。
上手く動かない足を前へ動かし、あてどなく彷徨うだけの自分。
この寒さから一刻も早く逃れたい一心で歩き続けながらも、私の心は既に諦めの気持ちで半ば満ちていました。
助けを求めたくても、自分にそんな資格があるとは思えません。
頼れる人も、安住の地も、私にはないのだろうと、そんなことばかり感じていました。
そのとき私が探していたのは、私を助けてくれる誰かというよりも、最後の時間を過ごすに相応しい場所だったのでしょう。
白い息を吐きながら、気がつくと私は、小さな教会の前に立っていました。
心のどこかに、まだ神様にすがろうなどという気持ちが残っていたのでしょうか。
自嘲的な思いが浮かびますが、自らを笑う気力もなく、教会の軒先に腰を下ろします。
もう一歩も動けません。立ち上がることすら出来なさそうです。
それで構わないと思っていました。
生を繋いでも、私には何を為すべきなのかすらわからないのですから。
このまま眠ってしまえば、この耐え難い寒さと孤独から解放される……そう思っていたとき、不意に教会の扉が開きました。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
出てきたのは、修道服を着込んだ男性でした。ここの教父でしょうか。
彼はずぶ濡れになって憔悴しきった私に気がつくと、静かに笑顔を浮かべました。
その笑顔はまるで春の日差しのようで、知らずのうちに私の頬には、雨とは違う雫が一筋伝いました。
そしてそれから、私は――。
*****
「紫苑」
呼びかけられて、私ははっとなって顔を上げました。
声の方を向くと、先ほどまで思い返していた表情と同じ笑顔で、お義父さんが立っていました。
どうやら思考を巡らせているうちに、時間を忘れていたようです。
ステンドグラスから差す光が、僅かに朱を強めています。
「すみません、邪魔をしましたか?」
「そんなことは……」
半ばぼんやりしていただけのようなものなので、少しだけ申し訳ない気持ちになります。
大恩あるお義父さんのことを邪魔だなんて、私が思うわけもないのですが……。
「お前は気がつくといつも礼拝堂にいますね。引き取ってからもう十年になりますが、本当に信心深いですね。私も見習いたいです」
「そういうわけでは……。考え事をしているだけです。私が、何をすればいいのか」
「ふむ……そういうことを考えるなら、やはり学園に通えば良かったのではないですか? 他の誰かと触れ合うことで得るものは少なくなかったと思いますよ」
引き取ってもらってすぐ、お義父さんは私を学園に通わせようとしてくれましたが、私はそれを断っていました。
見ず知らずの誰かに対し、損得抜きで手を差し伸べてくれるこの人に、必要以上の迷惑をかけたくなかったのです。
しかし、養父として私を引き取った彼が「迷惑などと思わないでほしい」と思っていることも、私にはわかっていました。
だからこの手の話題になる度に、私はなるべく感情を押し殺して、こう答えることにしていました。
「お気持ちはありがたいのですが、人が集まる場所が苦手なものでして。物事を学ぶだけでしたら、寄付して頂いた本を読めば事足りますから。図鑑の類も多いですし」
「そうですか……。紫苑がそう思うのであれば、無理にとは言いません。ただ、あまり私に気を使わなくてもいいですからね」
「わかっています、お義父さん」
わかっているだけで実践していないのだから、あまり意味はないのですけれど。
なんとなく後ろめたい気持ちになって、お義父さんから顔を背けます。
お義父さんの優しさが、私にはとても嬉しく、同時に申し訳ないのです。
私はお義父さんと違って清貧ではありませんし、あの日、一人で凍えていたのも、元はと言えば私自身の責任なのですから。
「お義父さん」
「なんですか?」
「どうしてあの日、私を助けてくれたのですか?」
私の問いに、お義父さんは不思議そうな顔をしました。
「お前が困っているみたいだったから……という答えでは、いけませんか?」
「いけなくはありませんけれど。金銭的な負担もありますし、第一、身元もわからない私のような者を引き取るなんて、百害あって一利ないのでは?」
「そうでもありませんよ。私も紫苑からは色々なものを頂いていますよ」
「私には、そんな感覚はまるでありません。私自身は、名前すらあなたから授かったというのに」
紫苑・アンダーライト。それが今の私の名前。
私の敬愛するお義父さんからもらった、大切な名前です。
「今にして思うと、我ながら安直な名前でしたね。紫苑というのも、お前の髪が紫苑に似た淡い紫だったからというだけですし」
「名は体を表すといいますし、良いのではないでしょうか。私は気に入っていますよ」
「そう言って頂けると嬉しいです。ありがとうございます」
「こちらこそ……感謝しています。名前以外にも、色々ともらってしまって。この服なんかも、そうですね」
今、私が身につけているのは、女性用の修道服です。
私は正式なシスターではありませんが、教会に住まわせてもらっているということで、お手伝いのような形で過ごさせて頂いているのでした。
「修道服なら女性用がいい、と言われたときには驚きましたよ」
「どうせ着るなら、可愛い方を選びたいじゃないですか。別にいいでしょう?」
「もちろん構いませんが……」
お義父さんは何か言いたげに口を開きましたが、それ以上は何も言いませんでした。
やはり、男である私が女性用を身に着けていることに対し、思うことがあるのでしょうか。
まあ、私は単に普段着として着用しているだけですし、個人の趣味の範疇ということで、見逃してくれているのかもしれません。
そんなところにもお義父さんの気使いを感じてしまいます。
あたたかい食事、住居、新しい名前に、家族のぬくもり。
かけがえのないものをたくさんもらっている身としては、何かお返しをしたいと考えるのは、当然のことです。
いくらお義父さんが、既に私から色々もらっていると言っても、私にその実感がないので、納得が出来ません。
何か明確な形で、お義父さんの恩に報いたい……最近の私は、そんなことばかり考えていました。
「こほん。色々と悩みがあるようですが、話したくなったらいつでも私を頼ってくださいね」
「はい、もちろんです」
相談するつもりはありません。お義父さんの優しさに寄りかかりたくありませんから。
ですが、お義父さんの言葉を否定する理由も見当たらず、私は小さく頷きました。
「大丈夫です。紫苑の悩みも、全てが救われる日が必ず来ますよ」
「あなたに初めて出会ったときに、私はもう救われたと思っていますが?」
「だとすれば、あの出会いは天の思し召しでしょう。お前は救われるべくして救われたのですよ。私は大したことをしていません」
そんなことはない、と思いましたが、お義父さんの微笑みを壊したくない気持ちが、喉まででかかった言葉を飲み込ませました。
私を救ってくれたのは神ではなく、お義父さんなのです。
お義父さんに対する感謝を神に向ける気には、どうしてもなれません。
それに、
(神に救われる価値など、私にはありませんから……)
気がつくと、自らを卑下する気持ちになってしまうのは、私の悪い癖かもしれません。
これというのも、私が私としてどう過ごしていけばいいのか、見いだせていないせいでしょう。
そんなことだから、自分自身を取るに足らない存在だと思ってしまうのです。
「紫苑? どうかしましたか?」
沈んだ気持ちが顔に出てしまっていたのか、お義父さんが心配そうに声をかけてくれました。
なんだか申し訳ない気分になりながらも、私はぎこちなく笑みを浮かべて、
「少し疲れただけです。部屋に戻らせてもらいますね」
後ろめたさに耐え切れなくなって、私は礼拝堂の外へと足を向けました。