どこまで走っても、目に映るのはただただ白い闇だけでした。
何も見えない、何も聞こえない。
鼓動だけが、胸を内側から強く叩いています。
呼吸は乱れ、体が鉛のように重たくなっても、足を止めてはいけないのはわかります。
(もっと、もっと早く逃げないと……!)
こういうとき、スカートではなくてズボンをはいていれば良かったと思います。
ひらひらした布地が足に絡みつくようで、どうしても上手く走れません。
背中の方から追いかけてくる気配が、少しずつその距離を近づけてきているのがわかります。
少しでも速度を緩めたら襲われる。その恐怖だけがぼくを突き動かしていました。
『アレ』は普通の人には見えない。だから助けを求めても無駄だとはわかっています。
それでも、考えてしまうことがあります。
なぜぼくにだけ『アレ』が見えるのか。
そして、どうしてぼくを襲ってくるのか。
ぼくは何も悪いことをしていないのに、一体どうして?
(あっ!)
コンクリートの僅かなひび割れに足を取られて、転んでしまいました。
走りながら考え事をしていたせいで、周りが見えていなかったのです。
すりむいた膝がじくじくと痛みます。
慌てて立ち上がって後ろを確認すると……もう『アレ』が目の前まで迫ってきていて、
「や……やだあああ!!」
腰を抜かしてしまったぼくは、思わず目をつむってうずくまりました。
しかし、五秒ほど経ってもそのときは訪れません。
おそるおそる開いた視界に映っていたのは、一人の女の子でした。
青いタータンチェックのワンピーススカート。
ぼくの着ているものより、スカートは少し短めです。
「とまれえええっっ!!」
声に呼応するかのように、その子の突き出した拳から眩い光が放たれました。
その光は『アレ』を一気に飲み込んだかと思うと、そのまま粒子となって天に昇り、やがて消え失せてしまいました。
一体、何が起きたのでしょうか……。
まるで深い空のような色をした髪を小さく揺らして振り返った彼女は、にっこりとぼくに微笑みかけて、
「危ないところだったね。でも、もう大丈夫だよ」
突然現れた彼女をぼんやりと見上げます。
この子、すごくかわいい……。
「大丈夫? 立てる?」
そう言って差し出された手を、反射的に掴んでしまいました。
柔らかい感触がじかに伝わってきて、不意に胸が小さくはねました。
「あ、ありがとうございます」
「気にしないで。困ってる人を助けるのは当たり前だもん。あっ、急いでるからぼくはもう行くね」
「あ、あのっ! ぼく、ひぐち・きょうです。きみは……?」
背を向けて立ち去ろうとする彼女を慌てて引き止めました。
足を止めてぼくに向き直った彼女の笑顔は、今まで見た誰よりも印象強くて。
「ぼくはさくらい・みのり。それじゃ、おかいものの途中だからこれでっ」
少し駆け足で、彼女――みのりちゃんはスカートをひらひらさせながら行ってしまいました。
ぼくはその背中が見えなくなるまで見送ってから、ほうと溜息をつきました。
世界には、あんな天使みたいな子がいるんですね。
この辺りに住んでいる子でしょうか。
(また会えるとうれしいです)
さてと、ぼくも早く帰らないと、おねえちゃんたちを心配させてしまいます。
歩き出そうとした瞬間、足元に何か落ちているのを見つけました。
それは、透明なガラス玉のついた指輪でした。
見ているだけで吸い込まれそうな、透き通った輝きがあります。
そっと握ってみると、
「えっ……?」
ぽうっと、白い輝きがガラス玉に灯りました。
持っている方の手が熱くなって、何か不思議な温かさを感じます。
どうやらただの指輪というわけではなさそうです。
もしかしたら、みのりちゃんが落としていったのかもしれません。
でも、今から追いかけても見つけるのはとても無理だと思いました。
……というのは単なる言い訳で、それを持っていれば、またみのりちゃんに会えるんじゃないかなって、そう思っただけなのかもしれません。
だけど結局、ぼくはそれ以来みのりちゃんに会うことはありませんでした。